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彼は死んだ。それは間違いない。
寒い冬の日。私たちは泣き腫らした目で彼が巨大な窯で焼かれるのを見届けた。だから疑いようがない。
彼は死んだ。
――では。
――ここに居る人は誰?
「起こしてしまったね」
彼は生前と変わらない笑顔を私に向けた。普段は冬の寒さのように厳しい顔立ちが、笑うと子供っぽく可愛らしくなるのが好きだった。
「どうして……」
それだけ言って喉がつっかえた。
私は輪廻転生とか死者の黄泉がえりとかいった現象はまったく信じていなかった。人生は一回こっきり。やり直しも二度目もない。なればこそ人は一生懸命に生きる。死者は生き返らない。
「驚いてるね。僕も驚いてる。まさかあの世にクリスマス休暇があるなんて」
私はカーテンの隙間から差し込む薄明かりの中で彼の姿を観察した。不意に人の気配と物音に起こされ、混乱する頭で誰何の声を上げた私は、枕元に立っているのが彼と知って二度びっくり。今の今まで彼がサンタクロースの衣装を着ていることにも気付かなかった。
「何それ」
率直な感想だが彼のサンタクロースは似合ってなかった。白髭を生やした恰幅の良いおじさんがプレゼントの入った袋を担ぐ。万国共通のサンタクロース像には、彼の体重は子供一人分も足りてないように見えた。
「変かな」
彼は鼻の頭を掻きながら笑った。
私は頷いて答えた。
「まあコスプレサンタだから。そこは大目に見てくれ」
「あっちの世界も楽しそうね」
三度びっくり。自分でも不思議なほど私は冷静だった。生前の彼と話しているのと変わらない感覚で言葉が出てくる。
「楽しいかどうかは人それぞれだと思うが、生きてるときと感覚的には変わらず過ごせる。朝起きて、ご飯食べて、仕事して」
「前言撤回。やっぱりつまんなそう」
生きているときから一日の三分の一を労働に当てていたのに、死んでからまた働かされるなんて!
「お化けは試験も学校も三大義務も免除されてるものじゃないの?」わざと渋面を作って言った。
「それが意外なことに死後の世界と僕らの世界――つまり、こっちだけど――は地続きみたいなもんで、ほとんど制度はそっくりそのまま持ち越しなんだよ。生きてたころの事を忘れず、または急な環境の変化に戸惑わず過ごせるようにらしい」
「ありがた迷惑」
「同感」
ふぅーと息を吐いて彼は床に腰を下ろした。暖房の入ってない十二月の大気に吐息が白い雲のように広がる。
「不思議ね。こうしてると死んだことを忘れそう。貴方がもう居ないなんて」
僕もだよ、と彼は再び大きく息を吐き、夜の闇を白く濁らせた。
「こうしてると今の状態が夢で、本当の僕は死んでなんかないと思えてくる。本当は君の横で寝てるんじゃないかって。そんなわけないのに」
電気を点けなきゃ。もっとよく彼の顔が見えるように。
「駄目だ」
腰を浮かして立ち上がりかけた体勢で私は間抜けな一時停止。
「僕たちは明るい場所じゃ見えない。姿が消えてしまうんだ。そういう風に出来てるらしい」
「不便なのね」
「そうでもない。明るい場所で生きてる人間には会いたくないんだ」
「どうして?」
「忘れてもらいたいから」
彼は自分もそれを望むという風にキッパリと言った。
「死者は忘れられるのを怖がると思ってた。つまり、それは肉体的な死の後に迎える精神的な――本当の意味での死だから。だけど実際に自分が死んでみて、これも程度問題だなと考えるようになった。命日や盆には墓参りに来て欲しい。僕という人間が居たことは忘れて欲しくない。だけどそれに縛られても欲しくないんだ」
ここへ来るまでに何度となく練習してきたのかも知れない。淀みなくほとんど一息で彼は言い切った。
彼の言わんとすることが分かった気がした。私は浮かせていた腰を下ろし正面に正座する。なんとなく仏様になった人間に敬意を払ってみた。
「人間は二度死ななければならない」
寸分の揺らぎもない力強い声だった。
「死んだ人間は生きている人を記憶で縛ってはならない。それが死人になって一年。僕が学んだ幽霊哲学だ」
もしかしては確信に変わった。
「私の記憶を消すのね」
彼は首を振った。
「消す、というのは適切じゃない。薄めるの方が正しい」
「どっちにしたって同じような物よ。どうしてそんな必要あるの? 思い出を大事にしたって良いじゃない!」
「落ち着いて」
彼は手の掛かる子供を説得するように言った。
「少し取り乱さないで僕の話を聞いてくれ。まったく年甲斐もない」
「レディに歳のことは言わないでって生きてるときから何度も言ってきたでしょ!」
「だけど……もう七十四じゃないか」
「まだ七十四よ。今は医学だって進歩してるんだから、あと三十年は生きてやるわよ」
「その三十年を思い出と過ごすつもりか」
我が意を得たりとばかりに挑戦するような口調だった。
「子供たちからの誘いも断って。こんな家と古い写真にしがみついて三十年。ろくすっぽ外出もせず家に籠もって」
「うぬぼれないで頂戴」
私はピシャリと言った。
「まるで私が貴方のことを忘れられないあまり家から離れられず、引きこもって日がな一日写真ばかり眺めてるような言い草ね。お生憎ですけど事実はそんな綺麗じゃありません。ただちょっと……歳の所為で身体を動かすのが怠くて家から出る日数が減っただけよ。この歳で今さら子供たちの家に転がり込んで孫に邪魔者扱いされるのも嫌だし」
私は少なからず彼の傲慢な口調に苛立っていた。思えば生前からそうだった。男の人は実際より自分を賢く見積もり自惚れる傾向が強いと言われる。彼は典型的だ。自分は賢い、正しいと考え、私に限らず子供たちの意見にも耳を貸すどころか一方的に説教する癖があった。
彼の死がまったく今の私に影響を与えてないと言えば嘘になる。それは悔しいけど……認めなければならない。だからって明け透けに「俺の事が忘れられないんだろう。分かってるんだぜ」なんて態度されたら――嗚呼! 腹立たしいったらありゃしない。
「あなたこそ私のことが忘れられないんじゃないの」
「もちろん」
少し意地悪く言ってみたつもりだったが彼の返事はあっさりしていた。
「さっきも言ったとおり、あの世と現世は地続きなんだ。こっちでの諸々を引きずって行く。そして生きてる人間と違って死んだら物を忘れるって事がないんだ」
生きていたころの事を忘れず過ごす。それは死者にとって良い事なのだろうか。ふと疑問が生じた。
人間の優れた所は忘却機能がある事だ、と、前に誰かが言っていた。人間は良いことも悪いことも忘れられるように出来ている。そのお陰でいつまでも過去に縛られることなく、時期が来れば次の場所へ歩いて行ける。
生前の記憶を持ったまま死ぬことのない存在として過ごす彼らは、一定の範囲に縛られ続けられていると言えるのでは。
「僕たちは沢山喧嘩したね」
唐突に彼は言った。
「そのすべてが過ぎ去れば良い思い出だったとは言えない。僕は君に本気で腹を立てた事が何度もあるし、君だって同じようなものだろ」
「離婚を考えたことは一度や二度じゃないわ」
「だけど思い出補正は不思議なもので。そんな不愉快な出来事ほど振り返れば美化されてしまう。もっと僕としては覚えていてもらいたいことが沢山あるんだけどね」
「そんなこと言って不都合な記憶だけ弄るつもりじゃないでしょうね。女性関係とか女性関係とか女性関係とか」
「また馬鹿なことを」
言いながらサンタ帽を脱いで頭を掻く。焦ったときに出る彼の癖だった。
「こっちにはいつまで?」
まるで冬休みに帰って来た子供たちへする質問だ。
「冬休みに帰って来た子供たちにするような質問だな。どうした? 何がおかしい?」
「何でもない」
私は綻んだ口元を元通り締めた。
「朝が来たら帰らなければならない」
「そう。ならまだ時間あるわね」
カーテンの向こうはまだ暗い。あの空が白み窓に張った氷が溶けるまで何時間あるだろう。
「久しぶりに話でもしましょう」
次に起きたときすべての記憶が薄れていたとしても。奇妙に現実感の伴う夢になっていたとしても、今はそうしたい気分だった。
「そうだな」
彼はサンタ帽を深く被り直した。
「そうしたい気分だ」
短編競作企画の参加作品です。
http://hakidamenituru.at.webry.info/200911/article_4.html
実は提出期限が12月31日なのに今、1月4日なのは申し訳ないです。おもさけながんす。
若いカップルの話だったはずが、気付くと老夫婦の話になっていて、後から全体を弄くりまくりやがりました。
つるさんに「ハードな曲、期待してまっせ」と言われたのでこの選曲。実は皆さんが書いた物をろくすっぽ見てないので、時間かけた割に選曲が被らないようにとか、長くならないようにとか全く調整してないのがどぐされです。
あたしが「どうしてママとパパは結婚しようと思ったの?」なんて唐突に尋ねたものだから、ビックリしたママは手元が狂いニンジンと一緒に自分の指まで切ってしまった。手首をギュッと握り締めるママに救急箱から絆創膏を一枚持って行った。
「ありがとう」
幸い怪我は大したことなく、少しきつめに絆創膏を巻いてやるとママは何ごともなかったかのように、再びニンジンを切り出そうとした。
「ちょっと! ちゃんとニンジン切る前に包丁洗ってよね。気持ち悪いじゃん」
「分かってるわよ。誠はいちいち細かいな」
「ママが大雑把過ぎるの」
「いいじゃない。半分は同じ血が流れてるのよ」
……いや、そういう問題じゃないし。
何か言ってやろうと思い口を開いたが言葉は出て来なかった。よく言えば大らか、率直に言えば大雑把。自分が気にしないことは他人から何を言われても気にしない。喧しく言うだけ疲れる。親子を十七年やって分かったママの性格だ。
「どうしてそんなこと急に訊くの?」
水で濡らした包丁を拭きながらママが言った。そんなこと、とは、先ほどの質問を指してるのだとすぐに思い至る。
「別に。ただ興味が湧いただけ」
あたしはチラッとカレンダーに目をやる。今日は四月一日。そろそろ春休みが終わろうとしていた。
休みも四日、五日ならいいが二週間以上になると暇を持て余す。人類が全ての義務から解放され完全なる自由を手に入れたとしたら、その自由の重さに耐えきれなくなり義務と苦役を望むだろう、と何かの本で読んだ記憶がある。つまり過ぎたるは及ばざるがごとし、ということだ。
今あたしは典型的な症状が出始めている。いつもならご飯が出来るまで部屋に籠もって待っているのに、今日は手伝ってもいいかなんて気まぐれを起こしリビングで待機していた。
「なんか暇じゃん。テレビも碌なのやってないし」
「ママは忙しいんです」
左手でニンジンを押さえると切ったばかりの指が痛むのか僅かに顔をしかめた。
絶好の口実を見つけたあたしは「それなら手伝うよ」と言って、ママに代わりまな板の前へ立とうとした。
「やめて! 来ないでちょうだい。お願いだから」
物凄い勢いで避けられた。強盗でも威嚇するかのように包丁をブンブン振り回している。あたしはどんだけ危険人物なんだと。天ぷら鍋から火柱上げて換気扇をチョコッと焦がしたくらいで大袈裟な。そりゃ人生で初めて消化器を実戦投入しましたよ。キッチン泡だらけで掃除が大変でしたさ。だけど一回の失敗で見限るのは早過ぎやしませんか? こういうのは根気よく続けるうちに上達するものでしょ。
「お願いだから何もしないで。座って待っててちょうだい」
ママは肩を落とし、グッタリした様子で言った。
「私の目が黒いうちは二度と、お米をコーラやチョコレートと一緒に炊かせたりはしません」
なんだ。そんなこと気にしてたのか。
「だけどママ。お米は外国だとデザート扱いなんだよ」
「ここは日本です。私たちは日本人。日本人にとってお米は主食」
「でも――」
「いいから」
ママはリビングのほうを指さした。「あっちに行ってて」
仕方ない。ここでヘタに逆らって明日の朝刊で“錯乱した母親に包丁で刺された女子高生”と紹介されるのは嫌だ。あたしは引き下がることにした。
しっかり交換条件をつけて。
「分かった。ここからそっちへは入らないから、さっきの話を聞かせて。どうしてパパと結婚しようと思ったのか」
ママは前屈みの体勢で首だけもたげた格好であたしを見る。
「それ話したら邪魔しない?」
「うん。大人しく聞いてる」
邪魔とは失敬なと思ったが、せっかく聞かせてくれるのだから話の腰を折ることもないだろう。
身を起こしたママは包丁をまな板の上に置き、ぼうっと遠くを見る目つきになった。昔を思い出してるのだろうか? しばらく固まって居たかと思うと、おもむろに「切っ掛けは嘘だったのよね」と口を開いた。
「当時のパパったら――まあ今もなんだけど――とにかく時間を守らない人で、待ち合わせに遅刻してくるのが当たり前だったの。デートの時なんて、いっつも三十分以上遅れてくるのよ。どう思う?」
「どうって言われても……」
「遅れて来ること事態はいいの」
「いいのかよ」
「とにかく来てくれた訳だし、そこを長々と言っても仕方ないと思うのね」
「やっぱりママとあたしって……ううん、何でもない」
不思議そうな顔をするママに取り繕った笑顔を向ける。今ハッキリ分かった。私は母親似じゃない。何となく思っていたけど今日ここで決定した。あたしなら彼氏が待ち合わせに遅刻してきたら、たっぷり遅れた時間の倍は説教するもんね。
「それで? 遅れて来ること事態はいい、なら何か他に気に入らないことがあったんだよね」
我が意を得たりとママの大きく見開いた目がこちらに向いた。心なしか鼻息も荒くなる。
「そうなのよ。私は遅刻したんならしたでいいのに、パパったらヘタな嘘で誤魔化そうとするのよ。
「うわぁ。それ本気で言ったの」
「アブダクションなんて言葉、パパの言い訳で初めて聞いたわ」
ママは右手で掴んだ包丁を振り上げまな板に勢いよく打ち付けた。本体から切り離されたニンジンの先っぽが、打ち上げ失敗したロケットのように足下へ落ちた。
「あまりにも酷いから少し懲らしめてやろうと思って嘘を吐いたの。ちょうどその日はエイプリルフールだったから。あら? そう言えば今日は四月一日だわ。偶然ね」
「いつも嘘を吐かれてる腹いせに、一年で一度だけ堂々と嘘を吐ける日に仕返ししたのね」
そういうこと、と言ってママは床のニンジンを拾い上げた。
「洗ったら」
どうしたものかと手の平に乗った赤い欠片を眺めているママに言った。そうねと応じて水道で汚れを落としまな板の端に戻した。
一連の動作を待って言った。
「それで? どんな嘘を吐いたの」
「どうせならビックリして腰が抜けるくらいの嘘が良いかなと思って」
「ママ性格悪い」
「一年に一回なんだもの。それくらいしたってバチは当たらないでしょ」
当時のことを思い出して愉快な気分になったのだろう。顔に薄く笑みが浮かんでいる。緩む口元を手で隠した。
そんな仕草されるとますます気になるじゃない。
「だから結局なんて言ったのさ」
あたしは少し乱暴に催促してみた。
「お父さんが待ち合わせの時間に遅刻して慌てて来るでしょ。いつものことね。それでこれもいつものとおり言い訳を始めようとするんだけど、その前に遮ってこう言うの。『あら大丈夫よ時間に遅れたくらい。私なんて“アレ”が遅れてるんだから』って」
「…………」
ひょっとしたら、うちの母親は恐ろしい人なのかもしれない。
「そんなこと言われたらパパ腰が抜けるどころか、オシッコ漏らしそうになったんじゃない?」
どうだったかしらね、とママ。
「その日はパパ急にお腹が痛くなったと言って帰っちゃったから」
「逃げたの! パパ駄目じゃん。最悪」
逃げるとかマジあり得ないし。あたしの中でパパの格付けが“普通の父親”から“駄目な男”に下がった。
「だけどその後が大変だったのよね」
ママは笑いを貼り付けたまま言った。
「その日の夜にパパとパパのパパ――つまりお祖父ちゃんなんだけど――が一緒にうちを訪ねて来たの。パパったら顔が腫れるくらい打たれていてね。男版お岩さんだったわ」
逃げた訳ではなかったのか。ごめんパパ。格付けは前のとおり戻すね。
「両親まで巻き込んで上を下への大騒動。こうなっちゃうと嘘でしたとは言い出せなくなって」
「そりゃそうよね」
そんなこと言った日にはズコーッて転けるどころの騒ぎじゃない。
「どうしようか考えてる時、お義母様が『病院へは行きましたの?』と訊いてきたものだから、これ幸いと飛びついて単に遅れているだけかもしれないので明日にでも行ってみます、と言ってその場を乗り切ったわ」
「へー。なんとか命拾いしたんだ……って、ここまで聞いといてなんだけど、それじゃ結婚の理由になってなくない?」
これで終わっていたらね、と、意味深に呟くママ。
まさか――。
「本当に出来てたの?」
恐る恐る尋ねるとママは大きく頷いた。
「ウッソー!」
「嘘みたいな本当の話ってあるのね。年明けにはめでたく女の子が生まれて今年で十七歳よ。驚かすつもりが不意打ちくらって私のほうが驚いてれば世話ないわね。ほんとエイプリルフールのネタって難しいわ」
いや間違いなく一番驚いてるのはあたしだと思う。両親の馴れ初めと自分の出生にそんな秘密が隠されていたなんて想像もしたことなかった。パパは知ってるのかな? 知らないんだろうな。言わないほうがいいよね。
そこでハッと気がついた。
「ねえママ」
「――ん?」
「ひょっとしてあたしの名前そこに因んでないよね」
誠。初めは嘘を吐いたつもりが、それによって存在を見出された子供。嘘から出た誠。
ママは目を逸らし左手でニンジンをまな板に押さえつけた。
「さあ。どうだったかしらね」
鼻歌でも始めそうなほど上機嫌なママはリズミカルに包丁を操り始めた。
家財道具一式を運び出しガランとした家の中をAは見て回った。恐らく二度とは戻って来られないだろう我が家の姿を目に焼き付けようとして。祖父の時代から多くの思い出を作った家。目蓋を閉じれば今は無き祖父、父の姿が在り在りと思い出される。
息子も当然この家と事業を継ぐものと信じて疑わなかった。先代二人がそうしたように、自分も下の世代へ譲り渡すのだと。
だが現実は家も事業も手放さざるを得なくなった。
二階の廊下を歩いていたAは床に跪き、板にできた僅かな窪みを指先でなぞった。普段なら気にも止めない小さな傷。今はそれが家族の年輪と見えた。ギュッと胸を掴まれた気がして息が詰まった。
ここを離れたくはない。この家を捨てるのは家族の歴史すべてを捨てることに等しい。だがグズグズしていては捕まってしまう。
未練を引き剥がすように立ち上がってAは階段を下りた。
初代が起こし、二代目が広げ、三代目が傾ける。昔から商売には付きまとう決まり文句のようなもの。まさか自分がその盆暗な三代目に陥るとは想像もしていなかった。祖父の起こした事業は父の代で急成長を遂げ、更なる飛躍を期待され三代目に就任したAが見事に倒してしまった。
時代が悪かった、と言ってしまえばそれまでだが、単に自分が暗愚だったのではないかという思いは拭えない。祖父や父ならどうしたろうか。二人なら見事に立て直して見せたのではないか。駄目な三代目だったのかもしれない。
「旦那様」
暗い階段を踏み外さないよう慎重な足取りで下へ向かうと、玄関脇にピートが控えていた。PTO108型アンドロイド、通称ピートはまだ事業が堅調だったころ購入した使用人ロボットだ。見た目は平均的な二十代の青年だが中身は当時の最先端テクノロジーが詰め込まれている。
「奥様とお坊ちゃまは準備が整っております」
「ありがとうピート」
恭しくピートは頭を下げた。いつもと何ら変わらぬ態度が余計にAを切なくさせる。
「今まで仕えてくれてありがとうピート。分かってると思うが引っ越し先に君は連れて行けないんだ」
倒産で抱える負債は資産を売却しても足りないだろう。明日の朝になれば話を聞きつけ借金取りがやって来る。借りた先が銀行だけならコソコソ逃げ出すことはなかった。何年かかっても完済しようと思えた。だが経営状態の悪化が周知の事実となった末期には銀行など歯牙にも掛けてくれず、不味いと知りながら横道に逸れてしまった。
「分かっております」
ピートは常と変わらぬ淡々とした口調で言った。
「今日までお仕えできて幸せでした。旦那様」
「こちらこそ。よく働いてくれたね」
それが彼らに与えられた唯一の存在意義だとは知っているが、目頭の熱くなるのは抑えられない。
ピートはAに背を向け跪いた。首に掛かった髪を掻き上げチップの収納部を差し出す。
「どうぞ」とピートは言った。
賢いロボットだった。このままピートを置いて行けばメモリに残されたデータから、行き先に関して思わぬ手がかりを掴まれる危険性がある。追っ手の追跡を逃れ新天地で新しい生活を始めるには後顧の憂いは断つ必要があった。
Aは人工皮膚を捲りスロットを剥き出しにした。
「怖いか?」
「いえ。あらかじめ分かっていたことですから。ただ――」
「ただ、どうした」
「もう旦那様や奥様、それにお坊ちゃまのことを思い出せなくなるのはつらいです」
「……私もだ」
動作チップを引き抜いた。ピートは項垂れるように首を落とし動かなくなる。
「ピート」
Aが呼びかけても返事はなかった。彼は視線を手に落としチップを眺めた。五センチ四方の薄っぺらい部品。自分たち一家とピートの数年間が詰まっているかと思うと複雑な気分だった。この程度の大きさに収まってしまう時間だったのかと空しく思える。人間の一生をつぶさに記録してもまだ余るほどの容量を持っていると知っていても。
チップを抜いて
そこで新しい主人を見つけ過去のことは綺麗さっぱり忘れ献身的に尽くすはずだ。それまで自分が何をしていたか、前に仕えていた主人がどうして自分を捨てたか思い出す術はない。
消せない記憶を抱えて生きていくのは人間だけだ。
Aはチップを床に落とし踏み砕いた。パキリと冬に薄氷を割ったような音がする。
今度こそ後に残るものはなくなった。
Aは袖を捲り時計に目をやる。間もなく日付が変わろうとしていた。この時計で午前〇時になったら家を出ようと決めた。